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奉幣殿と細川忠興公の祈り3

前回のあらすじ

玉子の17回忌の記念に奉幣殿を再建し、33回忌には遠く熊本から寺領を寄進。忠興の玉子への愛情からなるものかもしれません。

7i5a5691今年は再建400年となり、これまで守ってくれた祖先に敬意を表し、東儀秀樹氏にこの山にあった曲を奏でて頂きました。英彦山のお山もさぞ落ち着いたことでしょう。

また、奉幣殿が再建されたのは1616年9月です。今月28日の例大祭並権現講社祭に合わせ再建400年報告祭を執り行います。その日、社務所2階参集殿において竹チェロのコンサートをします

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奉幣殿と細川忠興公の祈り2

前回までのあらすじ

京都の寺院・高桐院の片隅に眠る忠興公と玉子夫人。波乱万丈な人生を送った二人は今日も静かに眠っている。玉子亡き後、忠興公はどのような思いで過ごしたのだろうか、奉幣殿再建に尽力したのは何故だろうか。

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英彦山は当時、天台系と云われており、英彦山大権現は阿弥陀如来を筆頭に釈迦如来・千手観音のことを指します。しかし再建当初の奉幣殿に安置された仏像は真ん中に釈迦如来・脇に阿弥陀三尊・不動三尊でした。これは忠興が禅宗の影響を強く受けたものと思われます。当時の英彦山は宗教に寛容で天台系と云われながらも山内には多くの真言系遺跡が点在しており、禅宗系の高僧を座主自ら御迎えしたりしております。また幕府が特に力を入れたキリシタンの弾圧も英彦山ではあまり効果なかったとみられキリシタン取締の初見は1774年とかなり時代を下った後の事です、現在英彦山に伝わる宝物の中にマリア観音、十字架が伝わっていることからもよく分かります。

さて、奉幣殿再建の折、忠興は何を思った事でしょう。1616年は、忠興の愛した玉子夫人の17回忌にあたるのです。高桐院の僧侶に伺った所、その当時、回忌に当たって寺院に建物を寄進することがあるとのことです。さらに33回忌に当たる1633年には忠興と玉子の子忠利が肥後国南関の地を寄進しております。1632年に細川家は肥後熊本藩に転封となりますが、母・玉子の事を思っての事でしょう。玉子の命日の夜に奉幣殿の上に燦燦と照り輝く星を結ぶと十字架になるようです。

忠興によって建てられた奉幣殿は平成28年に再建400年となり、その思いを伝えていくのも、今生きる人の使命なのではないでしょうか。

続く...

奉幣殿と細川忠興公の祈り

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英彦山神宮奉幣殿は元和2年(1616)に当時の豊前小倉藩主・細川忠興公によって再建されました。忠興公自身は禅宗に帰依し故郷には自身で開基した寺院があるほどです。その寺院・京都・高桐院の奥に一つの灯篭を墓標とした2人の墓があります。墓標の下には細川忠興、ガラシャ夫人が眠っています。墓標とするためにわざわざ熊本から持ち込んだ灯籠は師匠である千利休の形見で二人の思い出の品でもありました。ガラシャ夫人は外国の人ではなく、本名を玉子と言い明智光秀の娘として生まれます。そして織田信長のすすめによって15歳で細川忠興に嫁ぎました。豊臣時代にカトリックの教えに振れ、忠興には知られないようにキリスト教への信仰に傾け、洗礼を受けてガラシャという名前も受けました。そして関ヶ原の戦いで徳川方についた忠興が出征中の1600年7月16日、大阪屋敷を取り囲んだ石田三成は玉子に人質として降伏することを迫るも、玉子は固辞。家臣に自分を槍で突かせ、38年の生涯を終えました。秀吉のバテレン追放令直後の洗礼に激怒した忠興でしたが戦での表情とは裏腹に、武将の娘として、妻としての不運を一人で背負った玉子への無念は深かったに違いありません。隠居後、静かな土地に夫婦二人で安穏と過ごしたかったのでしょう。その願いが果たせなかった代わりに高桐院の片隅で思い出の灯籠の下に二人で眠ることを選んだのでしょう。

続きは、また明日!!

奉幣殿再建四百年記念コンサート

台風16号が九州南部に上陸する中、英彦山は一時雨が止み東儀秀樹氏の神前奉納がありました

その後、予定通りオークホールでコンサートを行いました

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東儀秀樹奉納コンサート

今日は東儀秀樹氏奉納コンサートのリハーサルを行いました。
明日の予定は奉幣殿において正式参拝並びに奉納演奏を行い、
午後16時30分より添田町オークホールで奉納コンサートを行います。

奉幣殿は一般の方は昇殿できません。

心配された台風の直撃は免れ、雨の影響がある中、準備万端で明日に挑みます。

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