奉幣殿と細川忠興公の祈り

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英彦山神宮奉幣殿は元和2年(1616)に当時の豊前小倉藩主・細川忠興公によって再建されました。忠興公自身は禅宗に帰依し故郷には自身で開基した寺院があるほどです。その寺院・京都・高桐院の奥に一つの灯篭を墓標とした2人の墓があります。墓標の下には細川忠興、ガラシャ夫人が眠っています。墓標とするためにわざわざ熊本から持ち込んだ灯籠は師匠である千利休の形見で二人の思い出の品でもありました。ガラシャ夫人は外国の人ではなく、本名を玉子と言い明智光秀の娘として生まれます。そして織田信長のすすめによって15歳で細川忠興に嫁ぎました。豊臣時代にカトリックの教えに振れ、忠興には知られないようにキリスト教への信仰に傾け、洗礼を受けてガラシャという名前も受けました。そして関ヶ原の戦いで徳川方についた忠興が出征中の1600年7月16日、大阪屋敷を取り囲んだ石田三成は玉子に人質として降伏することを迫るも、玉子は固辞。家臣に自分を槍で突かせ、38年の生涯を終えました。秀吉のバテレン追放令直後の洗礼に激怒した忠興でしたが戦での表情とは裏腹に、武将の娘として、妻としての不運を一人で背負った玉子への無念は深かったに違いありません。隠居後、静かな土地に夫婦二人で安穏と過ごしたかったのでしょう。その願いが果たせなかった代わりに高桐院の片隅で思い出の灯籠の下に二人で眠ることを選んだのでしょう。

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