奉幣殿と細川忠興公の祈り2

前回までのあらすじ

京都の寺院・高桐院の片隅に眠る忠興公と玉子夫人。波乱万丈な人生を送った二人は今日も静かに眠っている。玉子亡き後、忠興公はどのような思いで過ごしたのだろうか、奉幣殿再建に尽力したのは何故だろうか。

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英彦山は当時、天台系と云われており、英彦山大権現は阿弥陀如来を筆頭に釈迦如来・千手観音のことを指します。しかし再建当初の奉幣殿に安置された仏像は真ん中に釈迦如来・脇に阿弥陀三尊・不動三尊でした。これは忠興が禅宗の影響を強く受けたものと思われます。当時の英彦山は宗教に寛容で天台系と云われながらも山内には多くの真言系遺跡が点在しており、禅宗系の高僧を座主自ら御迎えしたりしております。また幕府が特に力を入れたキリシタンの弾圧も英彦山ではあまり効果なかったとみられキリシタン取締の初見は1774年とかなり時代を下った後の事です、現在英彦山に伝わる宝物の中にマリア観音、十字架が伝わっていることからもよく分かります。

さて、奉幣殿再建の折、忠興は何を思った事でしょう。1616年は、忠興の愛した玉子夫人の17回忌にあたるのです。高桐院の僧侶に伺った所、その当時、回忌に当たって寺院に建物を寄進することがあるとのことです。さらに33回忌に当たる1633年には忠興と玉子の子忠利が肥後国南関の地を寄進しております。1632年に細川家は肥後熊本藩に転封となりますが、母・玉子の事を思っての事でしょう。玉子の命日の夜に奉幣殿の上に燦燦と照り輝く星を結ぶと十字架になるようです。

忠興によって建てられた奉幣殿は平成28年に再建400年となり、その思いを伝えていくのも、今生きる人の使命なのではないでしょうか。

続く...